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2020年10月07日

美についての瞑想を通して、東洋と西洋が出会う

内山 憲一 貸与奨学金/1981年度採用 (うちやま けんいち)
奨学期間:1981年4月~1985年3月
奨学中の在籍大学:東京外国語大学 外国語学部フランス語学科
現在:工学院大学 教育推進機構教授 フランス文学者
1989年3月 東京大学大学院 人文科学研究科修士課程修了(仏語仏文学専攻)
1990年10月~1993年9月 フランス政府給費留学生・パリ第3大学大学院留学
1994年3月 東京大学大学院 人文科学研究科博士課程満期退学(仏語仏文学専攻)

私はフランス文学者として、理系の学生たちが人と文化・社会に関する基礎的知識を身につける手助けをしています。若い人たちが単なる娯楽や実利的な本だけではなく、自己形成のための本に関心を抱き、読みこなせるようになってもらいたいと思っています。そのような本の例として、私自身が訳者として関わった本を紹介します。


『美についての五つの瞑想』
フランソワ・チェン(著)、内山憲一(訳)

 一九八〇年代初頭の奨学生としての寄稿です。
 会報やホームページを見ると隔世の感があります。日本から世界へ、世界から日本へと双方向に開かれたプログラムは進化して、かなり高度なレヴェルでの研究を志す学生を対象としていることが分かります。選ばれた若い人たちの創造性がさらに育まれ、国際的にも活躍する人材が輩出されるだろうことが期待できます。
 自分が奨学生だったころは大学院に進学する前の文系の学部生で、漠然と進学はしたいと思っていましたが、将来の自己像を明確に思い描くことはできませんでした。幸い奨学金をいただいたおかげで、回り道はしながらものびのびと勉強することができ、現在は理系の大学において一介の語学教員として若い学生たちに向き合っています。もっとも、語学とはいっても必修の英語ではなく、第二外国語のフランス語、及びいわゆる一般教養科目の「文学」を担当しています。
 私の専門はフランス文学です。周りの理系の教員から見れば異色の存在でしょう。しかし微力ながらも、語学と文学の授業を通して、理系の学生たちが人と文化・社会に関する基礎的知識を身につける手助けをしています。具体的には、若い人たちが単なる娯楽や実利的な本だけではなく、自己形成のための本に関心を抱き、読みこなせるようになってもらいたいと思っています。そのような本の例として、私自身が訳者として関わった本を紹介します。この八月に水声社より刊行された一冊、中国出身のフランス詩人、アジア系初のアカデミー・フランセーズ会員フランソワ・チェンの著作の『美についての五つの瞑想』です。ちなみにこの本は、二年前に同社より相次いで刊行された『死と生についての五つの瞑想』『魂について――ある女性への七通の手紙』と合わせて三部作をなす哲学的エッセーです。

 『美についての五つの瞑想』の中で詩人フランソワ・チェンは「美はそこに現れるものである」と述べています。幾分奇妙な言い回しですが、客観的な美は存在することを認めたうえで、チェンは中国人の美的感性を挙げて説明を加えています。中国的な感性によると、美は決して静的なものではない、つまり最終的かつ決定的なものとして明かされているものではないというのです。〈気〉に命を与えられる実体として、美は〈隠-顕〉の法則に従うと詩人は述べています。霧に隠れる山や扇の後ろの女の顔のように、美の魅力は明かされることにあります。あらゆる美は独自のものです。また、状況や一瞬一瞬、光の当たり具合によって変わります。美の現れは、常に予想外であり望外のことです。チェンによると、美の顔つきは、たとえなじみのものではあっても、毎回毎回新しい状態であるかのように、ある一つの到来のように現れます。そうであるからこそ、いつも美は人の心を動かすのです。中国の名勝、廬山についてチェンが述べている部分を引用してみましょう。



 私[チェン]は霧に隠れている山のイメージを喚起しました。それは「廬山の霧と雲」という表現を思い出させます。中国語で「真の美」を意味します。その美とは、当然のことながら神秘的で「計り知れぬもの」、私はそう申しました。廬山はその霧と雲で有名ですが、さらに四世紀の大詩人、陶淵明の詩の中の有名な二行を生み出しています。この二行はその巧みな簡潔さによって、中国人が美を知覚する様態を理解させてくれます。

  私は菊を摘む、東の垣根の近くで
  遠く悠然として、南の山が望まれる(「飲酒二十首」其の五の5-6行目)

 フランス語訳では、残念ながら一つの解釈しか表現できませんが、この二行句には二重の意味があります。実際に二行目において、[フランス語訳で使用している]動詞「知覚する percevoir」は原語では「見」です。ところで、この動詞は古中国語では「現れる」ことも意味しました。したがってこの二行目は別の読み方も許容します。つまり、「遠く悠然として、南の山が望まれる」の代わりに「すると、悠然として南の山が現れる」と読むことができるのです。南の山とは廬山のことですが、この山は突然霧が引き裂かれるように晴れるときにだけ、その美の輝かしさを全開にすることで知られています。ここでは句の二重の意味のおかげで、読者はすばらしい出会いの光景に立ち会います――夕暮れ時、詩人は東の垣根の近くで身をかがめて菊を摘んでいます。ふと顔をあげ、彼は山を目にします。そこで句が示唆するように、山の姿(vue)をとらえようとする詩人の行為は、霧から解放されて視覚(vue)に入る山そのものの出現の瞬間と同時に起こっているのです。
 幸運な一致によって、フランス語でもvueという語は二重の意味を持つことが分かります。見る人の視線・眼差しと見られたものの姿・眺めです。このように、陶淵明の詩句の例においては、二つのvueが出会い、ある完璧な一致、奇跡的な共生状態が作りだされる。しかもすべてが悠然と、恩寵のたまもののように進むのです。



 以上、フランソワ・チェンの格調ある文章から、拙訳の長い断片を引用しました。この「眼差しの交差」という概念が真の美を理解する上でのキーワードとなります。『美についての五つの瞑想』後半部で、チェンはドイツ観念論の系譜の中では中国の美学に近い存在として特にシェリングを重視しています。また、フランスの哲学者からはメルロ=ポンティなど、あるいは画家のセザンヌを挙げ、東洋と西洋に通底する美に対する感性(美学の語源はまさに「感性学」です)を、二つの世界の狭間に立つ者として論じています。哲学や美学、広く文学に興味を持つ方々に読んでいただけると幸いです。



工学院大学 教育推進機構教授 内山憲一

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